私が当院を開院した理由
ここでは、私が、整体師を目指し開院するに至った経緯をご紹介します。
整体院へ行き、ご自身の大事なお身体を任せる上で、
「どんな人がやっている整体院なのか」
「どんな人に施術をされることになるのか」
という疑問もあるかと思います。
私の経緯を踏まえた人となりをご覧いただき、そのような疑問の参考になれば幸いです。
また、プロフィールはこちらをご覧ください↓
身体が弱い幼少期時代(幼稚園~小学校低学年)
生まれたときから、身体が弱く、近くの小児科に母親と一緒によく行っていました。
ご飯を食べても、すぐに嘔吐してしまい、幼稚園もよく早退していたそうです。
乗り物には弱く、運動も苦手で、引っ込み思案の性格でした。
教育熱心な母親の影響で習い事は、学習塾や水泳、習字などほとんど毎日、学校が終わってから行っていました。
子どもなりにストレスを感じていたんだと思います。
給食が食べれなくなり、先生の前で食べていました。
食べても、すぐに気分が悪くなり、嘔吐を繰り返していました。
右眼には、半年に1回、ヘルペスができ、大学病院の眼科に通院し、眼帯をつけて、学校に行ってました。
当時のことはほとんど覚えていませんが、小学校がすごく嫌でした。
学校をさぼって、鴨川で遊んでいたこともありました。
誕生日プレゼントで両親から買ってもらったグローブで、自宅の前の壁に向かって、ボールを投げるのが唯一の楽しみでした。
塾に行きながらも、頭の中では、「野球をしたいな~!」と常に思っていたので、偏差値は50を切っていたと思います。
小学校3年生の後半に、どうしても野球がしたくなって、母親に野球をさせてほしいとお願いしました。
地域の少年野球に入部することになり、学習塾以外の習い事はすべてやめて、病弱だった私は、野球少年に変わりました。
そこから、自分の人生はゆっくり変わり始めました。
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身体がどんどん強くなった小学校高学年
~中学校受験で初めての挫折、敗北感~
野球を始めて、土日は野球漬けでした。
当時、中日ドラゴンズの今中投手が好きで、ピッチングフォームをテレビで見て、研究してました。
どうしたら、今中投手みたいな速いボールを投げることができるのか、小学生なりに試行錯誤していました。
少年野球の監督に、どこを守りたいか聞かれて、「ピッチャー」と即答したのを今でも覚えています。
野球を始めて、体力がどんどんついてきて、あれだけ嫌いで食べるのが遅かった給食がクラスで食べるのが1番になりました。
担任の先生も驚かれていました。
小学校6年生になると、エースになり、毎週のように投げていました。
自分で言うのもあれですが、結構、いいボールを投げていたと思います(笑)
ファーボールを出すと、母親から「男なら打たれてもいいからど真ん中で勝負しろ!」とよく怒られていましたが、、、(笑)
性格も変わり、どんどん前向きで明るい子どもになったと思います。
友達も増えて、バレンタインチョコももらえるようになりました(笑)
6年生の夏で野球が終わってからは、中学校受験が控えていたので、毎晩夜遅くまで、河原町三条の塾で勉強していたのを覚えています。
母親が迎えにきてくれて、マクドナルドのマックシェイクを買ってくれるのが、唯一の楽しみでした(笑)
中学校受験では3校受験しました。
平安中学校(現:龍谷大平安中学校)はなんとか合格できましたが、他2校は不合格でした。
人生で初の挫折でした。
勉強を全然せず、野球ばかりしていたので、当然の結果でしたが、受験で落ちるという感覚を知り、すごく敗北感を感じました。
周りは、偏差値65~70の有名私立中学校を受験して合格してる人ばかりだったので、小学校の卒業式に行くのがすごく嫌でした。
案の定、周りが聞いてくるんです。
「伊藤くんは、どこの中学校に行くの?」
「私は〇〇中学校だけど、、、ここは東大・京大進学率が高いから選んだの。」
絶対に、私があまり出来がよくないのを知っていて、聞いてくるから、すごくイライラしてました。
私は、人生の敗北者だと小学6年生で思いました。
同じ小学生なのに、ここまで人生は変わるのかとつくづく思いました。
でも、今思うと、私が小学校で勉強より、野球を選んだことに後悔はありません。
野球を選んだことで、健康を取り戻したし、何より、チームプレーや挨拶、礼儀など、大人になる上で必要なものを学べたと思う。
あのまま、病弱のまま勉強していたら、多分、不登校になっていたと思う。
だから、後悔はしていないし、小学校6年で感じたあの敗北感から、「絶対に将来、見返してやる!」と卒業式のときに思いました。
そんな複雑な心境で、中学校に入学しました。
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中学校時代~大好きだった野球が大嫌いに~
中学校に入り、すぐに野球部に入部しました。
先輩後輩の関係が厳しくて、中学1年は、奴隷のように扱われました(笑)
野球が少しうまかったので、調子に乗っていたので、先輩にすぐ目をつけられ、嫌なこともさせられました。
ピッチャーをしていたのですが、肩や肘をいためて、注射をしながら痛みに耐えて、投げていました。
監督とも相性が合わなくて、何度も口論してました。
中学3年生でエースナンバーの「1」をもらいましたが、公式戦では、1試合も投げさせてもらえませんでした。
あれだけ野球が好きだったのに、大嫌いになりました。
最後の夏の大会前に、監督と大喧嘩して、当然、試合に使ってもらえず、中学3年間の野球を終えました。
もう、野球を辞めようかなと思い、友達とゲームセンターに行ったりしたりしましたが、私のいる場所ではないなと思いました。
肩もひじも痛くて、硬球で野球するのも厳しいから、高校を変わろうかなと思っていました。
しかし、平安高校で軟式野球をされてる監督に廊下でたまたま声をかけられました。
「一緒に野球して、全国の舞台に行かないか?」
こんな問題を抱えた私に声をかけてくれて、すごくうれしかったのを覚えています。
高校を変えようと思ってたので、両親に相談したら、「野球、頑張りなさい!」と言われました。
平安高校軟式野球部でもう一度、野球をやって、「全国の舞台に立つ」と心に決めて、平安高校に進学しました。
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高校時代~最後の最後で怪我をし、不登校になり、大学受験も失敗~
平安高校の練習は、本当にしんどかったです。
軍隊みたいな場所でした。
先輩のことは神様扱いで、高校1年は地獄でしたね(笑)
1軍~3軍まであり、日々、練習漬けでした。
夏場の練習は地獄でしたね。
今と違い、水が飲めない時代でしたから、嘔吐しながらノックを受けていました(笑)
冬場も走り込みで、御所の内回りを10周、毎週のように走りこんでいました。
高校1年生から背番号をいただけて、調子に乗りすぎていたのか、、、
高校2年生では、完全に干され、メンバー外が続きましたね。
でもなんとか、高校3年の春にメンバーに返り咲いて、最後の夏のメンバー入りを目指して、猛練習してました。
6月ころの練習中に、突然、息が出来なくなってしまい、病院に緊急入院しました。
肺の病気にかかり、全治2か月でした。
病院のベットで泣き崩れたのを今でも覚えています。
自分の不運のなさを恨みました。
退院して、野球部に戻ったけど、自分の居場所はそこにはなかったですね。
筋力は落ちて走れないし、私がいたポジションには後輩がいましたし。
最後の夏の大会、チームは全国準優勝、国体優勝しましたが、心から喜べませんでした。
野球部を引退してから、受験勉強を始めましたが、なんかやる気が起きずに、勉強は全然しませんでした。
高校3年生の2学期、3学期は、学校にほとんど行きませんでした。
今で言う、「不登校」でした。
学校に行く意味を見いだせなかったです。
私にとっては、高校は野球をする場所で、野球のない学校は行く必要がなかったと当時を振り返るとそう思います。
毎日、予備校の自習室で勉強したり、街に出かけて、ブラブラしてました。
学校の先生には当然、怒られましたが、「なぜ、学校に来なくてはいけないのですか?」と生意気なことを言ってました。
出席日数がギリギリでしたが、両親は何も私を責めなかったですね。
私の心境を汲み取ってくれていたのかなと思います。
やる気スイッチはどこにもなく、当然、偏差値は上がらず、センター試験でぼろぼろで1週間位引きこもりましたね。
浪人を覚悟していた時に、京都産業大学になんとか合格できました。
大学でも野球を続けようと思い、大学に入学しました。
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大学時代~青春を謳歌したが、またもや就職試験で挫折~
大学に入り、野球が中途半端で終わったので、再度、野球部に入部しました。
でも、思い描いてた野球と全然違ったので、3か月でやめました。
そこから、友達と遊びほうけていましたね(笑)
髪の毛は、パーマをあて、茶色に染め、両親は呆れていましたね
でも、大学1回生が終わるくらいに、このままではだめだなと思い、とりあえず、部活動をしようと思いました。
で、純粋に楽しそうだなと思い、ラクロス部に入り、楽しんでいました!
就職活動を考えないといけない、大学3回生くらいに、漠然とアパレル企業で働きたいと考えていました。
父親に伝えたら、大反対されましたね。
「お前には、公務員があってる」と言われました。
父親も公務員みたいな仕事をしていたし、姉も一般企業では働いていなかったから、自分が一般企業で働くイメージが湧きませんでした。
当時、就職氷河期で、1つの内定をもらうのには大変な努力が必要な時代でした。
で、悩んだあげく、3回生の夏から、公務員予備校に入り、勉強を開始しました。
「国税専門官」になると決めて、1日平均12時間以上は勉強しましたね。
当時お付き合いしていた彼女とも別れて(笑)、一心不乱に、勉強勉強の日々でした。
最初、勉強始めたときは、厳しいと言われましたが、本試験直前には、偏差値も上がってきて、いいラインまできていました。
でも、本試験でめちゃくちゃ緊張してしまい、、、、
結果は「不合格」でした。
結果が納得できずに、大阪の官庁まで見に行きましたが、私の受験番号はありませんでした。
そこから、他の公務員試験も受けましたが、全て不合格。
自分の人生を恨みましたね。
2か月くらい、友達とも会わず、部屋でぼーっと自分の人生どうなるんかなと思い、引きこもり状態でした。
今でも、恩人と思うのですが、父親の知り合いの方に、一度、民間試験を受けてみて、だめなら、浪人して公務員を目指してみたらと言われ、4回生の10月から就職活動を開始しました。
周りの友達は、就職氷河期でしたが、ある程度は就職決まっていましたから、遊びほうけていましたね。
履歴書を書いて、その恩人の方に、何度も駄目だしをされて、何回も書き直して、書いてました。
面接の練習も、何度も何度も父親にリビングでしてもらい、嫌味を散々言われて、、、
でも、素直にだめな所は修正して、面接はすごく得意になりましたね(笑)
確か、10月から12月までに、8社くらい受けました。
で、3社から内定をもらい、日本赤十字社グループの病院に就職を決めました。
ここは、公務員と同じような待遇が受けれるので、両親は、息子がこれで一生安泰だと喜んでくれました。
だから、自分も今まで人生で苦労したけど、ようやく春が来たと思いましたね(笑)
周りの友達にも、お前はいい企業に入れて、人生安泰だとよく言われてました。
私の頭の中でも、奥さんみつけて、結婚して子ども生まれて、幸せな家庭を築けるというイメージがありました。
残念ながら、すぐに崩壊して、人生がさらにどん底になりますが、、、
そんな感じの学生時代でした。
良いこともあったし、どん底に落ちたこともあったし、引きこもりになったこともあります。
でも、今から思うと、学生時代に苦労したおかげで、たくさんの出会いがあったし、今の自分を作ってくれたのも学生時代に色んな経験ができたからだと思います。
だから、後悔は一切していません。
で、私の人生はさらにどん底になります。
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20代のサラリーマン時代~うつを発症し、入院、退職~
意気揚々で、就職しましたが、病院の事務職の仕事がとにかく嫌いでした。
最初、管理部門に行く前に、現場を知らないといけないと言われ、受付で働いていました。
人間関係がうまくいかず、仕事内容も自分が思い描いていたのとかけ離れていました。
で、入社して2年目で、寝れなくなり、秋にうつ病を発症し、3か月休職しました。
またもや挫折です。
年明けから、5種類の薬を飲みながら、復職しました。
病気だから、無理しなくていいよとすごく配慮されて働くのが嫌で、陰口を言う人もいました。
復職の際に、現場は苦手だから、管理部門に異動させてほしいと伝えたので、3年目の4月から人事課に異動しました。
うつも幸い、薬を飲めば、なんとか働けるレベルだったので、それなりには仕事はできてました。
でも、薬を飲まないと生きていけない自分が辛くて、情けなくて、、、
仕事がそれなりにできてくると、どんどん仕事量が増えて、残業も増え、土日も仕事をしてる状態でした。
毎日、ゆっくり休むこともできない状態なので、薬の量がどんどん増えていきました。
10種類17錠の薬を毎日服用して、なんとか精神状態を保っていました。
どんどん増えると、頭が回転しなくなり、4回は休職・復職を繰り返しました。
そこからは記憶がほとんどなく、入院し、仕事は退職しました。
自分の人生、これからどうするんだろう、、、
このまま引きこもりの人生になろうかな、、、
もう一度、頑張ってみて、だめなら、諦めようか、、、
ま~色々悩みました。占いにも行きました(笑)
でも、やはり、小学校で感じたあの敗北感が頭に残っていました。
このまま引きこもりになるのは嫌でした。
どうせなら、努力して、どうしても駄目なら、引きこもりになろうと決めました。
そこから、自分に合う仕事は何だろうと思い、本やインターネットで調べたり、友人に相談したり、行動に移しました。
私は、話すことが好きで、自分自身が弱ってるときに、色んな人が助けてくれました。
だから、この世で、困ったり、弱ってる人を自分の話しで夢や希望を与えれてたら素晴らしいし、そんな仕事がしたいと思いました。
見つけたのが、リハビリの仕事で「言語聴覚士」でした。
その時も、薬は5種類は飲んでいたし、うつがまた再発するかもしれないし、学校に入るのは、ハイリスクでした。
でも、このまま引きこもりになるより、ハイリスクのほうにかけてみようと思い、入学金を振り込みました。
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なんとか免許を取得できた専門学校時代~自分のしたい仕事が見つかり始める~
専門学校の勉強は思っている以上にハードでした。
休みは日曜日だけで、課題やらレポートが出て、休みらしい休みはありませんでした。
30歳から、また机に座り、勉強し、周りは20代前半の人ばかりで、慣れるまでにすごくしんどかったです。
でも、どうしても、諦めることはできず、歯を食いしばって、朝起きて、夜遅くまで勉強していました。
免許を取得するのに、2か所の病院で実習(研修)を受けなくてはいけなく、その時は平均睡眠時間は3~4時間でしたね。
栄養ドリンクを1日に2本飲んでも眠たいという疲労困憊で3か月の実習を過ごしました。
その時に、中学生の患者さんを担当したことを今でも覚えており、今の自分の原点だと思います。
彼に最初に会った時に挨拶をしましたが、笑顔はなく、リハビリも拒否していました。
リハビリをしなくてもいいから、とにかく彼に笑ってほしいと思い、毎日、彼の病室に行き、声をかけてました。
自分も同じような時期に、野球で失望していて、笑顔を忘れていた時期があったから、とにかく、彼にはまた笑ってほしいと思いました。
病室に、漫画を持って行ったり、トランプを持って行ったり、、、
2週間くらいしたら、しぶしぶか分かりませんが、「マンガを読みたい」と言い始め、そこから、少しずつ、私に、今までの辛いことなどを話してくれました。
彼の病室でトランプをしていて、お母さんが、こんなことを言ってくれました。
「伊藤さんのおかげで、息子がまた笑えるようになりました、ありがとうございます」
彼に、私はリハビリをほとんどしていませんが、彼の心に安心感やつながり感を与えたことは確かだと思います。
彼は、不安で孤独で、自己否定を繰り返していたと思います。
この実習の経験から、「私は、弱ってる人や困ってる人に対して、安心感を与えられる仕事をしよう」と決めました。
そんな厳しい実習もなんとか終え、すぐに国家試験の勉強を開始しました。
その時の体調は、最悪でした。
でも、身体にむちを打って、朝から晩まで、過去問を広げて、勉強していました。
薬の量も増えてましたが、国家試験に合格するだけ、それ以上は望まないと思い、日々を過ごしました。
なんとか、2月の国家試験に合格し、4月から病院で働くことも決まりました。
でも、完全に身体は悲鳴をあげていました。
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30代前半の社会人時代~うつを再発、入院、そして減薬、断薬へ~
病院に勤務するも、体調は悪く、身体は限界でした。
自分なりに、うつのことを勉強し、自分のうつがなぜ治らないかが分かりました。
原因は「薬」でした。
薬を減薬しない限り、健康を取り戻すことはできないと本に書かれていました。
そこから減薬を開始しましたが、減薬に失敗し、うつを再発し、再入院しました。
お医者さんからは、減薬したことを強く怒られ、「一生、薬を飲みなさい」と宣告されました。
どうしても、健康を取り戻したいと思い、薬のことを暇さえあれば勉強していました。
うつを回復させるには、自然治癒力を高めないといけないことは分かっていました。
ですので、給料の半分近くは投資しました。
煎じ薬、鍼灸、サプリメント、、、
残念ながら、全て、失敗に終わりました。
諦めてたときに、整体の文字が飛び込んできて、それが師匠のお店でした。
ホームページを全て読んで、この方なら、自分のことを理解してくれるのではないかと思い、電話したのを覚えています。
夜の10時くらいから、30分位、電話で自分の悩みを聞いてくれて、金曜の夜に初めていきました。
何をされてるかよくわからない、、、
でも安心感だけは凄く感じました。
良くなるのに、時間はかかると事前に言われていました。
直感でこの先生にかけてみようと思いました。
1年通ってだめなら、諦めようという気持ちで治療を開始しました。
毎日、しんどいけど仕事に行き、週末は必ず、整体を受ける。
これだけを自分に課してました。
それ以上のことは、できないくらい体調は悪かったです。
半年経過したくらいから、身体が少しずつ健康を取り戻していることが分かりました。
そこから、減薬を成功させるために、ありとあらゆる病院に行きました。
なんとか、車で1時間以上かかる病院の先生に出会えて、減薬を開始し、断薬まで辿り着けました。
減薬期間中は、不安で孤独でした。
でも、師匠が毎週、整体をしながら話しを聞いてくれて、本当に心が救われました。
減薬は成功したけれども、仕事は悩み続けていました。
そんなときに、整体の待合室で整体スクールのチラシを見つけて、これしかないと思い、申し込みました。
それが2017年2月の話しです。
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整体修行から整体院開業へ~子供たちに夢や希望を与える存在になりたい~
2017年4月から整体の勉強を始めました。
私を含め5人で開始しました。
4、5月と授業を受けて、自分が整体師に向いていないんじゃないかと思いました。
授業についていくので、精一杯でした。
不安で不安で夜もあまり寝れなかったこともありました。
でも、自分が亀タイプと分かっていたので、毎日毎日、こつこつ整体の練習を重ねました。
整体以外にも、ホームページの勉強したり、ブログを書いたり、本を読んだり、、、
1年間はあっという間に終わりました。
年齢も職業もバラバラの5人が整体師になるという目標に向かい、笑ったり、泣いたり、今では、良い仲間です。
1年間の修行を終えて、私は、うつ・不眠専門「無痛整体未來堂」を2018年3月19日に開業しました。
うつ・不眠で悩んでいる人がたくさん来院してくれました。
仕事に復帰できたお客様に「伊藤さんに出会えて良かった、ありがとう」と言ってくれた方もおられました。
今まで諦めずに、人生を生きてきて良かったと思いました。
開業してから、半年たったくらいから、10~20代の大学生、中高生の来院が増えました。
子どもたちと話していると、不安感、孤独感、自己否定が強く、夢や希望を失ってる子供さんばかりでした。
ある大学生の方を整体してるときに、「このままでは日本が大変なことになる、子どもたちに夢や希望を与える存在になろう」と思い、「起立性調節障害」専門のホームページを開設しました。
「起立性調節障害」で悩んでいる子どもさんは、日本でたくさんいます。
しかし、確立された治療法がなく、薬を大量に飲んでいるお子さんがたくさんいます。
そのようなお子さんが、健康を取り戻していき、元気に学校に行くようになり、人生をどんどん楽しんで夢や希望を再び持ってほしいと思います。
私自身も10~20代、相当悩んだし、辛かった。
でもこうしてなんとか生きてるのだから、その経験を一人でも多く伝えれたらと思います。
以上が、当院を開業した理由です。
長すぎて、途中で読むのを挫折された方もおられると思いますが、最後まで読んでいただきありがとうございました。
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ご家族からのご相談も承っております。
病院に5~10年通っても改善しない方が多数来院されています。
当院は、お薬に頼らず、平均3か月10回前後の通院で根本解決を目指します。
身体に優しい痛くない無痛整体を一度試してみませんか?
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